ぷもも園

pixivに移行中(あちらなら気兼ねなくまんまん言葉を連発できるので)

篦を免る


楚の国に儒学の大家がいた。字は王、名は泥。数え切れないほどの門弟を抱えていたとの記述が古文書にも散見される。さらには彼のものとされる解釈の多くが後年まで伝わっており、その儒学に残した功績は計り知れない。にも関わらずその生涯について詳しく触れている文献は皆無なのである。この時代はさまざまな人物に関して多くの記録が残されていることを考えると、これだけの大人物のことが殆ど伝えられていないのは不可解極まりない。一体彼の身に何があったのであろうか。私は王泥の謎を突き止めるべくさまざまな史料を漁った。そしてついに、ある一篇の逸話の中から彼の姿を見出すに至った。それについて一寸記しておこうと思う。

王泥は儒家であった。門弟の数は千人を越え、新たに弟子になりたいと言うものが毎日、彼の家の前に長蛇の列をなしたという。彼は大抵その志願者たちに一瞥もくれなかったが、気が向くようなことがあると何人かに話しかけることがあり、その中でも特に気に入った者だけを門弟として認めたという。こういう訳だから彼の弟子になるのは相当困難であったがそれでも諸国からその門戸を叩きに訪れる者は絶えなかった。一体何が彼の人気を作ったのか。定かではないが恐らくはその説明の仕方によるものと思われる。王の元を尋ねる者は知識人層に限らず農民も多数いたという。普通、儒家に弟子入りするのは知識人であることがほとんどであるからこれは異例中の異例である。このことからも王が他の儒家とは一線を画した存在であったことが伺える。さて、彼の解釈の説明方法とは一風変わったものであった。もちろん一般的な儒家のように教室で座って講釈をすることもあったが、それに加えて彼はいわば実験的なことをしてみせたのである。例えばある言葉を唱えながら刀銭を川に投げ込むと雨が降るというくだりがあれば、実際にその言葉を唱えながら銭を川に投げ込んでみせた。そして不思議なことに話の通りに雨が降るのであった。彼はどの実験においても必ず成功してみせた。こういうわけであるから、知識人だけでなく農民たちをも惹き付けたのである。彼は儒家としての才能というよりも一種のカリスマ性に優れており、彼を慕う者もまた、儒家としてではなくカリスマ的な人物としての王を敬っていたのであった。

この日の題材は「篦を免る」の一節であった。これは例えとして引き合いに出された話で、岩の上に胡座の姿勢で瞑想しているところに天から篦が降ってくるのを避けるというものだった。彼はいつものように弟子たちに囲まれてその中央にある岩の上へと胡座をかいた。何時間経っても篦は落ちてこなかった。それでも弟子たちは篦を避けるのを見逃すまいと固唾を呑んで見守った。太陽が山の稜線から姿を消しかかったとき、東から風が駆け抜けた。木の葉が一斉に落ち、砂塵が舞う。王の頭の上に六寸ほどある木の篦が落ちてきたのはまさにその時だった。果たして王はその篦を見事に避け、いつものように弟子からの喝采を浴びるはずであった。しかし彼が篦に当たるまいと動いたとき篦もまた風に煽られてその軌道を変えた。篦は鈍い音を立てて彼の後頭部に当たるとくるくると回って砂埃の舞う地面の上にことりと落ちた。王は篦が当たった所の傷を手で押さえて地面に倒れ込んだ。弟子達は呆気にとられていた。あの王が篦に当たったのである。これまで決して失敗することの無かった王はいま虚しくも地に倒れ込んでいる。日は暮れた。弟子の一人が帰り始めたのをきっかけに、他の弟子達も次々と王の元を離れていった。王の傷は十日程で癒えた。再び講釈を始めるべく講堂へ行った。そこで彼は初めて、あれほどいた門弟が一人としていなくなっていることに気がついたのである。彼らにとってカリスマ性を失った王はもはや無用の長物であった。それからというもの王の生活は荒廃した。白昼から酒を浴びる毎日が続いた。ある夜、狂乱状態に陥った王は大量の薬を飲み死んだという。ここまでで記述が終わっている。死んだ時の年齢など彼に関することは一切書かれていなかった。