ぷもも園

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ガバの木と海のあるまちで (第9回・我が家の一コマ)

 その頃、我が家のモロ感爺は布団に横たわっていた。先日のダディー&島田戦で激ハメじいちゃん共々完膚なきまでに叩きのめされた屈辱は、77歳にもなってまで男色に現を抜かすようなこの色狂い老人にも流石に堪えるものらしかった。時々うわごとが聞こえる。といっても普段からうわごとを繰り返しているようなものなので、別に驚くには値しないのだが。私は襖を隔てた隣の部屋でテレビをぼんやり見ていた。ちゃぶ台の上には読みさしのくだらない漫画、本などがひっちゃかめっちゃかに投げ出されている。私の家は汚兄山(標高184m)の麓の高台にあって、日本海に沈んでいく夕陽がよく見える。洋洋と広がる茜色の海の向こうに目を凝らすと、小さな船が浮かんでいる。浜からすぐ近くにそそり立つ岩の松が、逆光線を浴びて長い陰を作っている。

 

 18時30分、夏の遅い陽が海に沈むと夕凪を破るように風が吹き始める。その風はまだ8月の半ばというのに秋めいていた。軒先からは風鈴の音に混じって微かな秋の虫の声が聞こえてくる。北国の夏は短い。盆が過ぎれば山のあちらこちらが少しずつ秋色に染まっていくことだろう。縁側に出ると、薄暗い坂道を部活帰りの中学生の一群が、がやがやとはやしたてながら街の方へ帰っていくのが見える。街唯一の中学校は私の家の側、すなわち街から見ると高台の上にあるのだ。

 襖を開けてモロ感爺が起きてきた。作務衣をだらしなく身に纏った爺は、何やら食物を探している。そして私にシチューはないのかと聞いた。モロ感爺はシチューを全部飲んでもいいくらい愛していた。彼には並大抵でないシチューに対するこだわりがあり、中でも、もっと突いてクレアおばさんのクリームシチューがお気に入りだった。一度、市川・玉藻・グラジオさんのクリームシチューとして某大手メーカーに売り込みをかけたモロ感爺だったが、会社からは梨の礫だった。私は不承不承にシチューを作らされるハメになった。圧倒的にカレー派だったのでモロ感爺とはもう喧嘩とかいうレベルじゃなくいがみ合っていた。私が中学生になってから抗争は激化、カレーかシチューかを巡って殺し合いになり、近所の人たちの制止も聞かず、警察沙汰になるのは我が家の恒例行事となっていた。それくらい私はモロ感爺が嫌いだった。いや「だった」というのは嘘だ。爺が死んで20数年になるが、今も大嫌いだ。時の流れは過去を美しくするものだ。しかしその恩寵はあまりにも醜悪なものに対しては及ばないようである。

 

 両親を失った私が母方の祖父、つまりモロ感爺に引き取られたのはまだ3歳の頃である。祖母は私が生まれる10年以上前に他界していた。モロ感爺はホモである。しかし彼は長男であったから、家のために結婚せざるを得なかった。大きくなって親戚から聞かされた話だが、モロ感爺は祖母を邪険に扱ったという。「おっぱいど素人」「あ、そう(無関心)」モロ感爺は心無い罵倒を妻に浴びせた。それでも祖母は耐え続けた。そんな私の祖母はある日、事故死を遂げた。姥逸(その頃あった出前サービス)の車に撥ねられたのである。のちの警察の現場検証によって時速140キロを出していたその車は、祖母を一瞬のうちに轢き殺してしまった。轢き逃げ犯は事故に気づかず、百数十km先の新潟の某所で捕まったという。なんでも珍しい苗字の男だったというが詳細は私も知らない。こうして独り身になったモロ感爺は悲しむそぶりも見せないどころか、これ幸いと男色に入り浸った。祖母の生前から男との不倫を続けていたが、枷が外れた今はもう人目も憚らずに男を貪るようになったのである。毎晩のように男を自宅に招き、彼の家は発展場と化した。しかしモロ感爺はしたたかな人間である。デカダンスに身を浸しているようで、その実はある野望を秘めていた。彼は当時の市長の芳賀という男と昵懇な関係になった。芳賀はがっしりとした体型で髭を蓄えていた。そんな芳賀をモロ感爺は衆道の泥沼へと引きずり込んだのである。芳賀はゲイであることを公言していたが、複数の相手を持つことを戒めていた。芳賀にはすでにパートナーがいた。芳賀はスキャンダルが発覚することを恐れ、モロ感爺に口止め料を渡し続けた。爺はその金を街の有力者にばら撒いた。そして彼は芳賀との約束を破り、全てを公にしたのである。芳賀の名声は大きく揺らいだ。それは折しも市長選の開かれるときだった。そこにモロ感爺は立候補したのである。芳賀のネガキャンと金のバラマキが功を奏し、圧倒的だった芳賀の支持層をことごとく寝返らせ、モロ感爺は市長の座を簒奪した。敗れた芳賀は北の街へと追い出されるように去っていった・・・