ぷもも園

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鳴き声雑感

私にとって散歩は感性を磨く時間といっていい。人のいない芝生の上を1時間歩くと随分気分が良い。その時間はいろいろ考えている訳だがどうもここに書けるような明確なテーマというものは浮かんでこない。全くもってくだらない、まとまりのないことを考えるばかりである。といってこれらの考えいわば散歩の剰余物を無駄なものとして捨ててしまうのは勿体ない。仮にも時間と労力を費やして作ったものなのだからなんとかして役に立てたい、否役に立たずとも書き留めておきたいと思った。そこでこのくだらない考えどもをここに書き残すことにした。もしかしたら有益なものもあるかもしれないがほとんどは無益でつまらないものである。


蛙の声を聞いた。一疋が鳴き出したと思ったらあちらこちらから声が聞こえてくる。そしてしばらく鳴いたと思ったらそのうちピタリと静かになる。どうもこの鳴き方というのは習性によるものらしく、一疋で鳴いていると天敵に見つかる可能性が高い。一方で複数で鳴いていればその可能性が少ない。成程合理的である。蛙の合唱は田舎の象徴である。東京で聞くことはないだろう。それどころか地方でもある程度水田がある所に行かないと聞こえない。ところがこれは蛙の声についてのことで、蛙の姿となるとちょっと事情が異なってくる。最近まで東京には蛙がいないと思っていたのだが実際に住んでみてその考えが誤りであると知らされた。それは確か10月の雨の降る夜、家に帰ると玄関の目の前に大きなガマガエルが何食わぬ顔をして座っていた。最初は驚いたがそのうちその姿が可笑しく映ったのを覚えている。しかしこんな都会で、田舎でも見た事のないような大きな蛙に出くわすとは思ってもみなかった。少し調べたところではこのガマガエルは環境適応能力が強く東京でも相当数が棲息しているらしい。そう言われてみれば環境適応能力が強そうな顔をしていた。第一そんなくらいの図太い神経をしていなければ人の家の前ですまし顔をしていることなど出来ないだろう。私もこうなれたらいいのにと思うけどなれない。ならなくてもいいのかもしれないけれど。話が逸れたがガマガエルは滅多に鳴くことは無い。主に鳴くのはアマガエルなどだけれどもこちらは繊細で都会の環境では生きられないので東京には住んでいない。よって東京では蛙の姿はあっても声は聞こえない。さて、この神経質なアマガエルは私の住む田舎には沢山いるのでその声をよく聞く。特に梅雨の時期の夜は凄いものでもはや合唱というより各々の叫び声である。あまりにもうるさくて夜眠れないのは少し困る。そういう意味ではこのアマガエルもまた神経質ではないのかもしれない。無神経でなければどんな蛙にもなれないのだろう。


「にゃーん」と呟くとたいていいいねがつく。人は「にゃーん」が好きだが一体全体この「にゃーん」とは何なのか。「にゃーん」は世間一般的には猫の鳴き声ということになっている。しかし私はこれを猫の鳴き声だとは思わない。第一判然と「にゃーん」と言っている猫に会ったことはない。では猫の鳴き声は何かと言うとこれは猫の声だから人間の言葉で表すのは不可能である。私が仮に猫の鳴き声を独自の表現を用いて言うなら「ぅゃぁ」くらいになるだろうか。こう言ってはなんだが「にゃーん」よりこの「ぅゃぁ」のほうが文字の見た感じが可愛らしいし音もより猫の声に近いのではないのかと思う。ただこの「ぅゃぁ」も結局のところは猫の鳴き声を人間の言葉に無理やり置き換えたものに過ぎない。この「にゃーん」や「ぅゃぁ」はある意味では人間の鳴き声なのである。人間の鳴き声だからこそ人はそれにいいねをしたくなるのかもしれない。動物は大抵鳴き声を持つのだから人間にも鳴き声があってもいいじゃないかと思う。


この文章は推敲を経て皆さんの元に届けられているわけだがやはり判然としないものになってしまった。内容が乏しいのは所詮歩きながらの考えをろくにまとめずに書きなぐったから仕方ないとしてその表現方法には一考の余地がある。文書読本でも読んで書き方というものを勉強せねば。