ぷもも園

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レビュー・劇場版ガバ穴ダディー

 ★概要=

 「あの「ガバ穴ダディー」が映画化されて帰ってくる!!」私がこんな煽り文句の広告を目にしたのは、しばらく前のこと。はて、見ようか見まいか、確かに「ガバ穴ダディー」は名作かもしれないが、43分の鑑賞には体力を要した。そんなダディー先生が映画館の大スクリーンと大音響で2時間半たっぷり大暴れときた日には、私なんぞは参ってしまうのではあるまいか。止そうかと思う。しかし、宣伝の泣き叫ぶ中年メガネの顔を見てしまったら、もういけません。公開当日、私ゃ期待に胸と股間を膨らませながら、いそいそと映画館へ向かったのです。

 

★見どころ=

 メガネ同士リーマンの絡み合いで始まる。これから何が始まるのか、全く予想できない観客たちの存在には御構い無しに、画面の中のダディー先生とタチリーマン氏は二人の世界に没入している。ややあって映画にしてはあまりにも貧弱なポップ体のタイトルカットが現れるから、違う映画に来てしまったのかと困惑させておいて、これもこの映画の趣向のひとつ。初見の客が唖然としているが、前作を知っている私からすれば、まだこれくらいは序の口、手練のマジックといったところ。そうしてやはりあのコックリング兄貴が現れる。またもや違う映像が紛れ込んだのかと心配させておくが、これもまたトリプルプレイへの伏線となる。

 

 と、ここまでは古参気取りの得意げでいたのだが、突然スクリーンに全く知らない、4人目の男が映ったのには、誇張でなしに度肝を抜かされた。ワイシャツに身を包んだはげ頭で小太り眼鏡のこの男は、どこかの会社の専務のような雰囲気だが、画面下が見切れかけてはいるものの、よく見るとその下半身ははだけている。彼の手はやおら画面の下へと伸ばされ、あろうことかその股間をまさぐり始めた。ほとんど無音に近い、一人の中年男が手淫に耽けるそのシーンは延々15分近くに渡り続いた。この男は一体何者なのだ?我々は映画を見に来て、何を見せられているのだ?頭の中にはいくつもの疑問が渦巻く。

 

 謎の4人目のソロパートを経てようやく本編が始まる。

 

 舞台は紀元前1919191919419年、この字幕が入ると同時に、前作のオープニングでも耳にした幻想的と言うべきか、それともミステリアスと言った方が良いのか、とにかく不思議なあのBGMがかかる。

 

 スクリーンに映るのはどこまでも続く砂漠の景色だ。ややあって泉のような、湖の周りにいくらか草木の茂った場所が映り、そのほとりには我らがダディー先生が、こともあろうに極めて現代的なテイストのソファーの上にどっかりと鎮座している。一体この映画の時代考証はどうなっているのだ?ふと浮かんだ疑問は、そもそもガバガバを売りにしているこの映画では、これも練りに練られた策略に違いない、という思いに打ち消された。

 

 「太いシーチキンが欲しい・・・」

 

 ダディー先生はシーチキンを求め始める。曲がりなりにも映画の主人公が、あろうことか食品に憧れるとは、一体どういう訳なのだ?それともシーチキンとは我々が想像する缶詰ではなくて、何か別のものの隠喩なのか?映画の考察が得意な向きには、ここは絶好の考察ポイントとなろうが、私の頭ではとても推察不能だ。ともあれ、ここからダディー先生のシーチキン求道遍歴が始まる。太さとは何なのか。太くなるとはどういうことなのか。鯖缶や鰯缶ではなぜいけないのか。我らがダディー先生はひとり、悩み苦しむ。

 

 不意に泉の中から現れたのが、あのタチリーマン氏である。

「欲しいんだろ?欲しいって言ってみーや?」

「うぅん太いシーチキンが欲しい・・・」と答えたダディー先生を、タチリーマン氏は

「違うだろぉ?」と一喝する。

タチリーマンはそれからダディーに静かに問いかける。

「お前の心は太いか?」

「お前には太いシーチキンをスッチョムする資格があるのか?」

「太いシーチキンとは誰かから与えられるものではなくて、冒険と苦悩の果てに作り上げるものではないか?」

 

 その刹那、タチリーマン氏のワイシャツの袖から何者かが金属音とともに転がり落ちる。ダディー先生が拾い上げたそれは、太いシーチキンとは似ても似つかない、あまりにも細い鯖缶であった。

 

「しゃぶらないとホラ大きくならないぞ」

 

 タチリーマン氏はこの一言を残して、吹いてきた風とともに消え去った。

 

 「スッチョムスッチョム・・・」言われた通りに細い鯖缶を蓋をあけることもなく缶のまましゃぶり始めるダディー先生。しかしダディー先生の必死のご奉仕も何処吹く風で、鯖缶は一向に太る気配を見せないまま冷たく光っている。

 

 やがてダディー先生はヨーロッパふうの街並みの中へ歩んでいく。季節は冬なのだろう。雪が綿のように降っていた。ダディー先生が門をくぐっていったかと思うと、その門柱には聖サンダー・テキーラ学校と書かれていた。

 

 どんな顔して教えているのだ?という前作で抱いた疑問はここで氷解した。なんのことはない、至極真面目で優しい教えぶりではないか。黒板に書かれているのは数学だろうか、ハインケル・ハイッチャーの定理だとかオマンコフの公式だとか、耳慣れない数式が並んでいる。それにしても、トリプルプレイでなりふり構わぬ乱れぶりを見せていたあのダディー先生が、教壇に立てばこれほどまでに清潔で涼しい顔の教師になるとは。一人の人間が様々な顔を持ち合わせているという当たり前のことに改めて驚かされる。表だけ見たのではそのひとの本質はわからない。いや、表と裏の両方を見ても、やっぱり本質というのはなかなか姿を現してくれない。だから面白い。

 

「おっぱいが気持ちいい×OMNKが気持ちいい=、この問題の答えわかる人はいるかな」

 

「我慢できない!」

 

 亜麻色の髪をした、7歳くらいの女の子が元気にダディー先生の問題に答えた。私などには、教理問答のように聞こえて今ひとつ要領を得ないが、これも算数の一種なのだろう。

 

「そう、正解、きみは太いシーチキンだ!」

 

 やがて授業が終わり、子供達はカバンを手にいそいそと帰っていく。校庭ではもう子供達の雪合戦が始まっている。

 

「俺は太いシーチキンなのかな」

 

ダディー先生は独りになった教室で、こう呟きながらさっきの缶詰をポケットから取り出して眺めた。それはやっぱり、太くもない、シーチキンでもない、単なる細い鯖缶だった。

 

「太いシーチキンが欲しい・・・」

 

 この独白とともにダディー先生はタチリーマン氏の言葉を思い出した。太いシーチキンは与えられるものではない。自ら作り出すものではないか。

 

ダディー先生は学校を出ると雪の降る街をどこかへ歩いていく。街には全く人気がない。

 

気がつけば町外れの、何もない荒野のようなところに、ダディー先生は一人で立っていた。

 

 あの冒頭の4人目の男が現れたのはその時だった。この人がシーチキンを太らせてくれるのだろうか。ダディー先生に強力な助っ人登場と思わせておいて、ダディー先生のお腹を太鼓のバチで叩き始めたではないか。曲はズバリ駒形おとこ節。

 

「いってってって」

 

 ダディー先生は痛がるが、4人目の男はなおもリズムに乗ってダディー先生の腹を叩いてくる。泣いても泣いてもやめてはくれない。彼はダディーにぷもも怨嗟を抱いているらしかった。それにしても太鼓腹を実際に太鼓として使うとは、聞いたことがない。

 

「妊娠してるんだろ、俺の三木谷の子を」

 

4人目はダディー先生に問いかける。

 

そうか、前作で登場したコックリング兄貴は、実はこの4人目の夫で、だから彼は浮気相手のダディー先生を恨んでいるのだ。

 

古代ギリシャの宮殿のような舞台になると、ダディー先生と4人目の男が戦い始めた。

 

ダディー先生も機関銃をブルルァッと連射させて善戦したが、4人目には当たらない。それどころか、また前のようにバチで腹をリズミカルに叩かれる始末である。

 

やがてダディー先生は戦闘意欲を失い、omnkもどうにかなってしまった。

 

逃げようとしたとき、そこに現れたのがあのタチリーマン氏である

 

「後ろってどこや(不退転の覚悟)」

 

二人はタッグを組んで4人目と戦い始める。

 

「鯛^〜痛い!」

 

タチリーマン氏は全ての攻撃を身を呈して受け止める。しかし、4人目の男の攻撃は、鞭で軽く叩くという甘めのものだ。ダディー先生に比べて痛がっているようにも見える。

 

その時、戦っているダディー先生の細い鯖缶がみるみるうちに太りだした。そしてそれは実に立派な太いシーチキンになったではありませんか。

 

「太いシーチキン、うーん、たまらぬ!」

 

ダディー先生はついに錬シーチ金術を開発したのだった。細い鯖缶を太いシーチキンに変えるという夢のような技術。それは、ダディー先生が逃げることなく、戦ったからこそ得られたものだろう。

 

やがてそこに神々しい光とともに現れたのはあのコックリング兄貴である。コックリング兄貴はあっという間にダディー先生、タチリーマン氏、4人目をそれぞれ順番に妊娠させてしまった。

 

しかし、タチリーマン氏も、4人目の男も、妊娠したまま、出産することができずに破裂して死んでしまった。そしてダディー先生が出産したのは・・・驚くべきことに宇宙だった。

 

穴がガバガバだったからこそ、出産できて生き残れたのだろう。昨今は島ママに妊娠されたいという願望を口にする人々が増えたが、妊娠されたところで出産してもらえそうになければ、結局産み直されることなどできはしない。そんなメッセージもこの映画には含まれているのだろう。

 

目から入ってくる情報に、脳の処理が追いつかない。それでも頭をフル回転させて、必死に追いつこうとする。

 

そうか、これは現代劇でもなんでも無いのだ。舞台は紀元前1919191919419年。だからこれは創世神話なのだ。

 

 ラストのクロージング、一同が果てた余韻の中で、ダディー先生の大きな腹が収縮と膨張を繰り返していた。その腹にズームがかかるとともに、よく見ると星のようなものが煌めいている様が浮かび上がる。お腹がへこむことで星の群れは消え、膨らむことで再び銀河が立ち現われる。

 

「そうか」

 

私はこの期に及んでようやく、「ガバ穴ダディー」という作品が意味することを悟ったのである。

 

 宇宙が膨張し、そしてまた収縮していくという、途轍もない時間・空間スケールにおける出来事を、ガバ穴ダディーは腹の律動によって表現していたのだった。しかもそれは一回性の中に閉じ込められた出来事ではなくて、幾度にもわたって繰り返される。

 

 そういえば映画の中盤でダディー先生は「いっぱいいっぱい欲しい!!」と口にしていたが、そうか、実は「いっぱいいっぱい星!!」と言っていたのだ。

 

 一切の出来事はガバ穴ダディーの腹の中で生起し、消滅する。世界というのは畢竟ただこれを繰り返しているだけなのである。その一切の中には無論、我々の生き死にといったものも含まれている。我々はガバ穴ダディーの腹のなかで生まれ、生き、そして死んでいくのだ。さらにこの営みは無限回にわたって繰り返されるのだ。

 

こうして映画は終わりを迎えた。スクリーンにはもはや何も写っていない。2時間にわたって休むこともなく大音量を流し続けたスピーカーも、今や沈黙を守っている。

 

普通の映画ならば皆がいそいそと帰り支度を始めるのだろうが、誰も立ち上がろうとしなかった。かくいう私もその一人で、映像から受けたものの衝撃の大きさに呆然としていた。多分、他の観客も私と同じような心境にあったに違いない。

 

十分近く経った頃だろうか、後ろの席の若者がよろめきながら立ち上がって

「ガバ穴ダディーは俺を妊娠していたのか・・・」

とポツリと呟いてホールを後にした。他の客たちも無言のまま、いくらかうな垂れ、放心したような様子で出口をくぐっていく。

 

あまりに宗教的な宇宙観ではあるまいか。ようやく目を覚ました私の良識は映画の余韻に浸る私自身に問いかける。それはそうかもしれない。しかし一方で、我々はでっぷり太った豊満ママのお腹に常に抱かれているという世界観も捨てがたい。

 

フロントのホールへ戻る。大きなガラス張りの窓からは、朝のどんよりとした空模様と裏腹に、清々しい青空が広がっているのが見える。この空もやはりガバ穴ダディーのお腹の中に収められているのだろうか。そんなことを考えながら私は映画館を後にしようとした。

 

「すみません、「ガバ穴ダディー」をご覧になられた方ですか?映画の記念特典があるのですが、もしまだお持ちでなければ・・・」

 

 私は映画に夢中で、特典など全く眼中になかった。まぁ、この際だから貰っておこう。私は受け取ったそれを、ポケットに突っ込んだ。

 

 映画館はショッピングモールの最上階にあったから、せっかくなら下のフードコートで何か食べて帰ろうと思った。イタリアンチェーン「オッパリヤ」の看板が目に移る。久しぶりにいいじゃないか。私は席につき、この店の名物「ナニガキモチーノ」をオーダーした。

 

ふとさっきの特典が気になって、ポケットの中を探ってみた。妙に柔らかい。

 

 ダディー先生がマスコットキャラクターのようにデフォルメされていて、包装のビニールに「孕む!ガバ穴ダディーストラップ」と書いてあった。

 

 その時、私は視線を感じた。隣のテーブルに座っている小さな女の子が私の持っているストラップをじっと見つめている。

 

 私は迷うことなく、女の子にストラップをあげた。女の子が嬉しそうで、私も嬉しい。

 

 やがてナニガキモチーノが届いた。女の子は私にバイバイをして、母親に手を引かれて帰っていく。もちろんあのストラップをポケットの中に大事にしまいこんで。

 

 私はナニガキモチーノを食べながら考える。孕むストラップとは一体どういうことなのかと。孕んで殖えるのか?それならば、孕ませるのは誰なのだ?いや、むしろ単体で繁殖できるのか、いや、この映画の特典のことだから、孕むというのも一種のジョークに違いない。それから・・・

ふと我に返った私は、ともかく考えることをやめて、ナニガキモチーノの味をしっかり噛みしめることにした。