ぷもも園

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篦を免る


楚の国に儒学の大家がいた。字は王、名は泥。数え切れないほどの門弟を抱えていたとの記述が古文書にも散見される。さらには彼のものとされる解釈の多くが後年まで伝わっており、その儒学に残した功績は計り知れない。にも関わらずその生涯について詳しく触れている文献は皆無なのである。この時代はさまざまな人物に関して多くの記録が残されていることを考えると、これだけの大人物のことが殆ど伝えられていないのは不可解極まりない。一体彼の身に何があったのであろうか。私は王泥の謎を突き止めるべくさまざまな史料を漁った。そしてついに、ある一篇の逸話の中から彼の姿を見出すに至った。それについて一寸記しておこうと思う。

王泥は儒家であった。門弟の数は千人を越え、新たに弟子になりたいと言うものが毎日、彼の家の前に長蛇の列をなしたという。彼は大抵その志願者たちに一瞥もくれなかったが、気が向くようなことがあると何人かに話しかけることがあり、その中でも特に気に入った者だけを門弟として認めたという。こういう訳だから彼の弟子になるのは相当困難であったがそれでも諸国からその門戸を叩きに訪れる者は絶えなかった。一体何が彼の人気を作ったのか。定かではないが恐らくはその説明の仕方によるものと思われる。王の元を尋ねる者は知識人層に限らず農民も多数いたという。普通、儒家に弟子入りするのは知識人であることがほとんどであるからこれは異例中の異例である。このことからも王が他の儒家とは一線を画した存在であったことが伺える。さて、彼の解釈の説明方法とは一風変わったものであった。もちろん一般的な儒家のように教室で座って講釈をすることもあったが、それに加えて彼はいわば実験的なことをしてみせたのである。例えばある言葉を唱えながら刀銭を川に投げ込むと雨が降るというくだりがあれば、実際にその言葉を唱えながら銭を川に投げ込んでみせた。そして不思議なことに話の通りに雨が降るのであった。彼はどの実験においても必ず成功してみせた。こういうわけであるから、知識人だけでなく農民たちをも惹き付けたのである。彼は儒家としての才能というよりも一種のカリスマ性に優れており、彼を慕う者もまた、儒家としてではなくカリスマ的な人物としての王を敬っていたのであった。

この日の題材は「篦を免る」の一節であった。これは例えとして引き合いに出された話で、岩の上に胡座の姿勢で瞑想しているところに天から篦が降ってくるのを避けるというものだった。彼はいつものように弟子たちに囲まれてその中央にある岩の上へと胡座をかいた。何時間経っても篦は落ちてこなかった。それでも弟子たちは篦を避けるのを見逃すまいと固唾を呑んで見守った。太陽が山の稜線から姿を消しかかったとき、東から風が駆け抜けた。木の葉が一斉に落ち、砂塵が舞う。王の頭の上に六寸ほどある木の篦が落ちてきたのはまさにその時だった。果たして王はその篦を見事に避け、いつものように弟子からの喝采を浴びるはずであった。しかし彼が篦に当たるまいと動いたとき篦もまた風に煽られてその軌道を変えた。篦は鈍い音を立てて彼の後頭部に当たるとくるくると回って砂埃の舞う地面の上にことりと落ちた。王は篦が当たった所の傷を手で押さえて地面に倒れ込んだ。弟子達は呆気にとられていた。あの王が篦に当たったのである。これまで決して失敗することの無かった王はいま虚しくも地に倒れ込んでいる。日は暮れた。弟子の一人が帰り始めたのをきっかけに、他の弟子達も次々と王の元を離れていった。王の傷は十日程で癒えた。再び講釈を始めるべく講堂へ行った。そこで彼は初めて、あれほどいた門弟が一人としていなくなっていることに気がついたのである。彼らにとってカリスマ性を失った王はもはや無用の長物であった。それからというもの王の生活は荒廃した。白昼から酒を浴びる毎日が続いた。ある夜、狂乱状態に陥った王は大量の薬を飲み死んだという。ここまでで記述が終わっている。死んだ時の年齢など彼に関することは一切書かれていなかった。

大変身

おことわり:いつも以上にふざけて書いた文章です。

47歳の高校教師。既婚で2人の子供がいる。普段は真面目で優しく、生徒からの信頼も厚い。平凡だけれども皆が憧れる理想的な人物。しかし彼には長年人に明かしていない苦悩があった。彼はある日、その苦しみに耐えかねて人知れず大変身を遂げた。彼の普段を知る者はこれから話す変身後の姿を見たら驚くに違いない。しかし、普段は真面目な人物であるからこそこの大変身が可能だったのである。

7月のある日の午後5時。彼は仕事を終え、数学科研究室を後にした。部活の顧問を担当していないため、勤務後はすぐに家路につくのである。学校から家までは約30分。電車に揺られて5駅のところにあるマンションで4人暮らしをしている。彼はいつものように学校の最寄りの下野駅に着いた。改札を入ろうとした時、彼の頭に不思議な考えが過ぎった。

太いシーチキンが欲しい

突如、どこからともなく現れたその想念は一瞬にして燃え上がった。

我慢出来ぬ…

駅の近くのコンビニに入り、ビールと1番大きい缶のシーチキンを買った。それから駅から少し歩いたところにある公園のベンチに腰を下ろした。缶を開け、サラダ油のたっぷり染み込んだ大きな塊を頬張る。

「おいしい。」

顔には確かに幸福の色が見て取れた。彼はあっという間に平らげた。もともと痩せた方ではなかったが。ここ数年の太り方は目覚しいほどだった。服も軒並み買い換えた。これは一つには運動不足があるが、それ以上にストレスに拠るところが大きかった。彼は一見充実した日常生活にどこか不満を持っていた。それが何なのかは分からなかった。この頃はもう楽しみといえば食べることくらいになっていた。ストレスが増えれば増えるほど食べる量も増えていった。

7月の日は長い。ようやく空が夕焼け色に染まりだした頃、彼はまだベンチに座ったままだった。楽しみだった時間が過ぎたあとの虚無感。家に帰ることの憂鬱さ。彼は何か自分にとっての一大事件が起きることを願った。そうすれば俺の生きる意味は確実に変わるだろう。俺はいつも満たされていないんだ。安定した生活がなんだ。そんなもの、楽しくなくては全く意味が無い。何が真面目で優しい教師だ。そんな時ある男が座っている彼に声をかけた。ちょうど彼と同じくらいの背格好で年も近いように思われる。
「あぁ島田か」
その男は島田だった。島田は大学のサークルの同期でよく飲みにいく間柄だった。就職した後も頻繁に会っていたが、40代に入るとお互い忙しく、ここ4~5年は疎遠になっていた。島田は彼の左隣に腰掛けた。話によれば数年前に課長から部長に昇進し、仕事に追われているという。英語が堪能な島田は会社でも一目置かれた存在で英語圏との取引が多いここ最近は特に引っ張りだこであった。
「どうしたんや」
島田は活力のない彼にこう言い彼の右肩に手をかけた。その瞬間、彼は不思議にある感情を抱いた。それはここ最近感じることのなかった充足感だった。彼の顔に笑顔が戻った。
「何がいいんや?」
関西弁が交じるのはあの頃ままである。彼は島田に何かを呟いた。それを聞いた島田は
「Here we go」
と流暢な英語で答え立ち上がった。二人は夕闇に包まれた街の中を、並んで駅の方へと歩いて行く。そして駅の改札をくぐり人気のない13番線ホームの方へと吸い込まれていった。

その後、彼は大変身を遂げたのだがその話はまた後日とさせて頂こう。

親不知

私が生まれ育ったのは新潟の西のはずれにある歌ヶ浜という集落だった。北に日本海を望み、あとの三方は険しい山に囲まれていた。多くの家は漁業を生業としていた。男たちは海に出て漁をし、女たちは行商として近辺へとを売りに行く。こんな小さな集落でも漁に出た船が帰ってきて行商が出掛ける朝は賑やかである。戦争がはじまる頃は50軒ほどの民家があり、北陸線の駅や郵便局、古びた商店に国民学校もあった。ここの正式な地名は歌ヶ浜だが、日常生活でこの名前を呼ぶ者は誰もいなかった。私が歌ヶ浜という呼び方を知ったのは小学校に上がってからのことである。集落の内の者も外の者もみなここを親不知と呼んだ。現に駅の名前も郵便局の名前も親不知である。何故かは分からないが、恐らくこの地名は一度聞くと忘れられないからではなかろうか。

親不知の地名の由来は幼い頃から祖父母、近所の年寄りたち、学校の先生など色々な大人達からよく聞かされた。平安時代壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落ち武者の一人が越後へと都落ちしていった。都に残された妻はこのことを知り、息子の手を引いて夫の元へ向かった。二人は難所と呼ばれたこの親不知にたどり着いた。崖が海に迫っており海岸は極めて狭い。冬の日本海は荒れていた。二人はこの狭い道無き道を手を握りあい歩いた。半分まで来たかと思ったところだった。怒涛が二人に襲いかかった。一瞬、二人の手が離れた。波はその子供を攫っていった。母親はまた掴もうと思ったけれども波に呑まれた子供の姿はもう見つからなかった。

この親不知は最近になっても難所だった。鉄道や国道が整備される前、人々はこの隘路を歩むことを余儀なくされ、多くの旅人たちの命が奪われた。そのためであろう、岩陰に小さな祠が建てられていた。明治に入って北陸線が開通してからもこの区間は土砂崩れや雪崩が頻発し、しばしば汽車が止まった。ひどい時だと一週間ずっと動かないこともあった。明治から今に至るまで何件も死者の出る事故が起きたと聞く。私がそのうちの一つの目撃者になったのは五歳の冬だった。近所の友達と遊んで帰った後、疲れて家の二階で眠っていた時だった。顔馴染みの駅員が血相を変えて家に来た。
「先生はいらっしゃいますか。近くで列車が雪崩に巻き込まれて怪我人がたくさん出ています。大至急駆けつけてもらいたい。」
医者だった私の父は急いで現場に向かった。外が騒がしくなっていた。ねずみ色の空から雪が降りしきる。私は眠い目をこすりつつ祖母に手を引かれて父のあとを追った。家を出て、線路の上を歩いてからしばらく行ったくらいところだっただろうか。事故の様子が見えきた。ひっくり返った汽車の周りに百人はいただろうかたくさんの人が集まっている。一部の車両は完全に土砂に埋まっており、男達がスコップを持って必死に掘り起こしていた。先頭の機関車は海に投げ出されていた。寒風が容赦なく吹き付ける。冬の日本海は荒れていた。私はこの時見た夕陽をはっきりと覚えている。この辺りは分厚い雲に覆われているのに地平線の方は晴れている。日本海に真紅な太陽が沈んでいた。ただただ美しかった。これ程美しい夕陽、いや景色というものを私は今まででこの時しか見たことがないように思われる。夕陽に照らされたこの事故も美しさを帯びていた。私の目の前を担架に担がれた死人が通った。紫の着物を着た若い女だった。私はちっとも恐怖を覚えなかった。それどころか斜光線に照らされた女の顔は美しかった。本当は死んでいなくて寝ているだけのように思えた。私はしばしぼんやりとしていた。しかしこの酩酊状態は長くは続かなかった。夕陽は沈み辺りには薄暮が訪れた。懐中電灯の光がちらほら灯り出した。私は眠いのを思い出した。繋いでいた祖母の手を揺すった。祖母は私の意を解したのだろう。帰ろうかと言って歩いてきた線路の上を戻り出した。
その翌日の新聞の一面はこの事故のことを報じた。大きな写真と共に北陸線親不知で急行列車転覆すと書いてあった。また、聞いた話によるとまだ行方の分からない者があるということだった。それはこの列車の機関士だった。機関車の一部が海に沈んでいるのを考えると波に攫われた可能性が高いとされた。警察の指揮の下で漁師達は船を出し、近くの浜を探した。けれどもこの親不知の海は深く、捜索は難航を極めた。ここの砂浜は浅いと思って少し進むと急に深くなり、底が見えなくなる。事故から五日ほど経って鉄道が復旧した後も海に潜って探したそうだ。一週間経っても見つからず、そのうちに断念された。こうしてこの事故は死者六十、行方不明者一の惨事となった。

このように旅人たちには難所として恐れられた親不知だが、そこで育った私たちには海に対する恐怖というものが全くと言っていいほどなかった。子供たちにとってこの海は活力と美の源泉だった。まさに母なる海であった。とにかく海は楽しい遊び場だった。小学校に上がると夏休みは毎日、ここへ泳ぎにいった。学校では水泳の授業がなかったが、男児たちは海で遊ぶのでみんな泳げた。子供の頃の親不知には楽しい思い出がたくさんある。私たちは泳げる夏はもちろん、そうでない冬も専ら浜でかけっこなどをして遊んだ。もっとも冬の時期の日本海はいつもと言っていいほど荒れているし、そうでない日も雪が降ったりしていたから遊べる日はほとんどなかった。冬は死んだ魚が浜にたくさん打ち上げられた。死んでからそれほど経っていないので食べられるのである。実際には死んでいるのではなくて仮死状態だったということを知るのは私が高等学校に入ってからである。子供たちはこの魚が食べられることを知っているからいつも遊びに行く時にざるを持って行った。そうしてそれを魚で一杯にして家に帰るのだった。この行き掛けの駄賃は私の家のような漁師でない家庭では特に有難がられた。祖母は誠がとってきた魚だといって非常に喜んで食べた。親不知の海はいつも美しい景色を見せてくれた。地平線に沈む夕陽だけでなく、他の姿も素晴らしかった。私は特に夏の海が好きだった。夏の日本海はどこまでも青くそれでいて透き通っていた。その青は強い日差しを受けて輝いていた。私は学校の美術の時間で絵を書く時には決まってこの夏の海を描いた。けれどもこの絶妙な青はどうしても表現出来なかった。私はそれくらいこの海に傾倒した。この親不知の海は信仰の対象だった。

ある日、不思議な出来事があった。私たちが普段通り遊んでいると海の中からくぐもった唸り声のような音が聞こえた。言葉では形容しがたい音だった。子供たちはみなあの地名の由来となった話を思い出した。祖母にこの事を話したところ、意外な答えが返ってきた。それは鐘の音だという。私は最初理解出来なかったが、説明を聞いているうちに納得した。大昔、崖の上に寺があった。それが大規模な地崩れで寺ごと海へと沈んだのだという。その寺の鐘が何かの拍子に鳴る。知らない人々はそれをここで亡くなった人達の声だと言っているがそんなことは無い。私はこれを聞いてとてもほっとした。

小学校四年になった昭和十八年頃には戦争が烈しくなってきた。漁業に変わって軍需産業が主流となっていた。集落のはずれにあった森を切り開いてそこに工場が建設された。学校の建物よりすこし大きいくらいの平屋建てだった。完成する頃に一度その前を通ったことがある。子供の目にも急ごしらえの粗悪な作りということがわかった。とても新築とは思えなかった。この頃はもうあらゆる物資が逼迫していたのだろう。漁師だった男たちはここに務めるようになった。男たちが出征するようになると今度は女たちがその代わりを務めた。もっとも戦争が始まってから変わった事といったらそれくらいであった。寒村であるから空襲の標的になる心配が全く無かった。子供たちは相変わらず砂浜で遊んでいた。この頃、海岸で北へ向かう艦影を遠くに見たことがある。おそらく舞鶴あたりから出航したのだろう。それからはその姿を偶に見るようになった。私たちはみな、はるか遠くに見えるこの軍艦に憧れた。そうしていつかはあの船に乗りたいと思った。あそこからこの集落はどのように見えるのだろう。そんなことを考えただけで胸が踊った。軍艦の姿は昭和十九年頃までは見られたがそれ以降はめっきり見なくなった。とにかくこの集落の戦時中は平和そのものだった。子供たちが戦争を実感する機会はほとんどといってなかった。穏やかでありふれた日々が流れていた。

昭和二十年七月二十八日の昼過ぎのことだった。私は小学校六年生で午前だけの授業が終わって家へ帰って宿題をしていた。突然外から銃声が聞こえた。何事かと思って窓を開けた。それは機銃掃射だった。あの工場が狙われたらしい。五六機の飛行機が見えた。側面に星が描かれていた。左に大きく転向して砂浜の方へと向かっていった。そしてまた砂浜のほうからさっきと同じ銃声が聞こえた。不吉な予感がした。私はすぐに駆け出した。浜に向かう理由はなかった。何かに突き動かされていた。ある種の野次馬根性があったのは否定出来ない。けれどもそれだけではなかった。途中で向こうから見覚えのある顔が駆けてくるのが見えた。それは同じ国民学校の四年生の生徒だと分かった。何かを叫んでいた。私はあの予感が的中したのだと瞬時に思った。彼は息を切らしながらやっとのことで声を発した。その声はほとんど聞き取れなかったが誰かが撃たれたということだけははっきりとわかった。私はまず父を呼びに行った。けれども父はいなかった。祖母は、工場で怪我をした人の手当に行っていると言った。私はそれを聞いてすぐまた浜へと引き返した。さっきの生徒が大人達を呼びに行ったのだろう、十人くらいの人が集まっていた。十歳くらいの男児が倒れていた。国民服の左肩の所は真紅に染まっていた。彼の状態は一目見て絶望的なものだった。それはそこにいる皆が分かっていた。大人達もただ彼を取り囲んで立ちつくしているばかりだった。流れ出た血潮は寄せては返す波で次第に薄められていく。波の飛沫が彼の顔にかかった。一瞬、彼の顔が生き生きとして見えた。その拍子に生き返るかと思った。私は彼の顔をじっと見つめた。鼓動が早くなる。けれども彼が目を開けることはなかった。私はこの死にゆく姿を見ていて不思議と恐怖というものを感じなかった。それどころかある種の感動さえ覚えたのである。死にゆく少年を徐々に侵食し、静かに包み込んでいく海。それは私が思い描き憧れた理想の海そのものだった。この海は我々の帰るべき場所なのだと思った。私も死ぬ時はこの海岸で死のうと思った。そうして誰は誰も知らないうちに波に攫われ、海へと還るのである。

終戦から十年近い月日が流れた。この集落は大きく変わった。親不知はもはや難所ではなくなった。終戦後二、三年してから山を貫くトンネルが作られて、鉄道も国道もこれまでの海辺のルートではなくそこを通るようになった。こうして土砂崩れや雪崩に悩まされることもなく安全に往来ができるようになった。いつしか親不知からはこれまで絶えず漂っていた悲劇的な雰囲気が消えた。時代の変化とともにここで起きたさまざまな事件も次第に風化していった。あの祠も管理する者がいなくなり、すっかり荒廃していた。屋根は壊れてあちらこちらに隙間ができていた。土台の木は潮風に晒されたまま手入れされなかったからであろう、腐って今にも崩れそうだった。往来が絶えただけでなく浜で遊ぶ子供たちの姿も消えた。戦後、軍需工場は払い下げられ民間の機械工場となったが不景気の煽りを受けてまもなく倒産した。戦前に隆盛を極めた漁業も戻ることは無かった。住民の多くはほかの所へ移り住むため親不知を出ていった。かろうじて残ったわずかな人達は近くの街に勤めに行くようになった。国民学校も新制の小学校になってからいくばくもなく閉鎖された。小学生たちは隣町の小学校まで汽車でトンネルをくぐって通っていた。彼らはもはやこの親不知の名の由縁を知らないだろう。この集落は昔の賑わいぶりがまるで嘘であるかのように閑散としていた。浜も夏休みに近隣の中学校の遠泳場所として利用される時期に賑わうくらいでそれ以外の季節は全く人気がない。とにかくこの親不知はすっかり寂れていて往時の栄華がまるで嘘のようだった。海も魅力を失いつつあった。町と違って海の姿は一見したところでは昔のままだった。しかし私には色褪せて見えた。昔の海は楽しいものである一方で、ある種の悲劇的な情緒を孕んでいた。それが今ではすっかり穏やかなだけの海になってしまった。そこからは荒々しい感情といったものが感じられなくなっていた。私がこの頃に見た海は変わり果てたものだった。

昭和三十年の七月下旬、夏休みを利用して実家に帰省していた。私はそのころ金沢で医大生をしていた。帰ってきたからといって何もすることがない。いつも話し相手だった祖母は五年前に亡くなった。高校に上がったばかりの妹は私とは話したがらない。父は相変わらず医者として多忙である。そんなふうだから結局帰省しても二階でただ時間を潰すよりなかった。とても暑い日だった。蝉の鳴き声はその暑さを増幅させる。南中した太陽の光が容赦なく照りつける。あまりの暑さに、本を読んでいるうちに目眩がして私は畳の上に寝転んだ。父が階段を駆け上がってきた。
「浜で水泳の授業をしていた中学生が何人も溺れたらしい。人手が足りないようだからお前も来てくれ。」
支度もそこそこに父と看護婦と三人で砂浜へ走った。そこはまさに私たちがいつも遊び場としていた所だった。テントの下に何人もの生徒が横たわっていた。父は看護婦にカンフル剤を打つように指示した。そうしている間にも生徒達が次々と運ばれてきた。治療の甲斐があって何人かの生徒は意識を取り戻したけれども、亡くなる生徒のほうが多かった。一時間ほど経った頃、生徒の親たちが次々と駆けつけた。既に亡くなった子を前に泣き崩れる姿、死にゆく子を見つめる姿。夕陽はいつしか沈み、テントには電球が灯った。私はそのころ到着した大学病院から派遣された医師たちに仕事を引渡し、休憩をもらった。今日は七月二十八日。あの日から十年ということを知る者はここにどれだけいるのだろう。海を見た。この海を感慨深い思いで見つめるのはいつぶりだろうか。もしかしたら五歳の頃に見た、あの事故の日の夕陽以来かもしれない。驚くべきことに私の目の前には子供の頃と全く変わらない海の姿があった。近頃の病人のような様子とはうって変わった生き生きとした姿。海の底から唸るような声が聞こえた。本当にこれは鐘の音なのだろうか。テントの灯が水面で揺らめいた。

鳴き声雑感

私にとって散歩は感性を磨く時間といっていい。人のいない芝生の上を1時間歩くと随分気分が良い。その時間はいろいろ考えている訳だがどうもここに書けるような明確なテーマというものは浮かんでこない。全くもってくだらない、まとまりのないことを考えるばかりである。といってこれらの考えいわば散歩の剰余物を無駄なものとして捨ててしまうのは勿体ない。仮にも時間と労力を費やして作ったものなのだからなんとかして役に立てたい、否役に立たずとも書き留めておきたいと思った。そこでこのくだらない考えどもをここに書き残すことにした。もしかしたら有益なものもあるかもしれないがほとんどは無益でつまらないものである。


蛙の声を聞いた。一疋が鳴き出したと思ったらあちらこちらから声が聞こえてくる。そしてしばらく鳴いたと思ったらそのうちピタリと静かになる。どうもこの鳴き方というのは習性によるものらしく、一疋で鳴いていると天敵に見つかる可能性が高い。一方で複数で鳴いていればその可能性が少ない。成程合理的である。蛙の合唱は田舎の象徴である。東京で聞くことはないだろう。それどころか地方でもある程度水田がある所に行かないと聞こえない。ところがこれは蛙の声についてのことで、蛙の姿となるとちょっと事情が異なってくる。最近まで東京には蛙がいないと思っていたのだが実際に住んでみてその考えが誤りであると知らされた。それは確か10月の雨の降る夜、家に帰ると玄関の目の前に大きなガマガエルが何食わぬ顔をして座っていた。最初は驚いたがそのうちその姿が可笑しく映ったのを覚えている。しかしこんな都会で、田舎でも見た事のないような大きな蛙に出くわすとは思ってもみなかった。少し調べたところではこのガマガエルは環境適応能力が強く東京でも相当数が棲息しているらしい。そう言われてみれば環境適応能力が強そうな顔をしていた。第一そんなくらいの図太い神経をしていなければ人の家の前ですまし顔をしていることなど出来ないだろう。私もこうなれたらいいのにと思うけどなれない。ならなくてもいいのかもしれないけれど。話が逸れたがガマガエルは滅多に鳴くことは無い。主に鳴くのはアマガエルなどだけれどもこちらは繊細で都会の環境では生きられないので東京には住んでいない。よって東京では蛙の姿はあっても声は聞こえない。さて、この神経質なアマガエルは私の住む田舎には沢山いるのでその声をよく聞く。特に梅雨の時期の夜は凄いものでもはや合唱というより各々の叫び声である。あまりにもうるさくて夜眠れないのは少し困る。そういう意味ではこのアマガエルもまた神経質ではないのかもしれない。無神経でなければどんな蛙にもなれないのだろう。


「にゃーん」と呟くとたいていいいねがつく。人は「にゃーん」が好きだが一体全体この「にゃーん」とは何なのか。「にゃーん」は世間一般的には猫の鳴き声ということになっている。しかし私はこれを猫の鳴き声だとは思わない。第一判然と「にゃーん」と言っている猫に会ったことはない。では猫の鳴き声は何かと言うとこれは猫の声だから人間の言葉で表すのは不可能である。私が仮に猫の鳴き声を独自の表現を用いて言うなら「ぅゃぁ」くらいになるだろうか。こう言ってはなんだが「にゃーん」よりこの「ぅゃぁ」のほうが文字の見た感じが可愛らしいし音もより猫の声に近いのではないのかと思う。ただこの「ぅゃぁ」も結局のところは猫の鳴き声を人間の言葉に無理やり置き換えたものに過ぎない。この「にゃーん」や「ぅゃぁ」はある意味では人間の鳴き声なのである。人間の鳴き声だからこそ人はそれにいいねをしたくなるのかもしれない。動物は大抵鳴き声を持つのだから人間にも鳴き声があってもいいじゃないかと思う。


この文章は推敲を経て皆さんの元に届けられているわけだがやはり判然としないものになってしまった。内容が乏しいのは所詮歩きながらの考えをろくにまとめずに書きなぐったから仕方ないとしてその表現方法には一考の余地がある。文書読本でも読んで書き方というものを勉強せねば。