彼女が控え室のドアを開けると、監督とスタッフたち、それから一人の声優が座っていた。彼女は撮影の集合時間の最低一時間前には現場入りすることを習慣としていた。いつも一番乗りだったから出鼻をくじかれた格好だ
「お兄さん…!はいお願いします!(IKKO)」差し出された名刺の苗字には短 とある。これがピンガ役か。ケツデカは頭の先から足の先まで品定めするように短を一瞥した。短はショートヘアに眼鏡をかけた大人しそうな雰囲気だった。ケツデカの厳しく冷たい瞳には魅力のない暗いの女が映った。こんなのはとても彼女に適う脇役とは言えなかった。しかしまぁ私の引き立て役なのだから、それはそれでいいかもしれない。脇役が大根役者だからこそ主役が輝くというものだ。
俄に廊下が騒々しくなった。その賑やかさはあの二人の登場を意味していた。ややあって控え室のドアを窮屈げに潜って現れたのは大物声優として名高いダディーと島田部長。ダディーは共演者スタッフへの挨拶もそこそこに、控え室常備の太いシーチキンにがっつき始めた。島田部長は静かにガムを噛んでいる。3つ目のシーチキンの缶が空になった頃、現場スタッフがやってきてスタジオ入りを告げた。
声優たちは収録ルームへ向かった。ケツデカの演技は堂々たるもので、大物声優の片鱗を感じさせるものだった。しかし短も負けてはいない。控え室の沈んだ様子とはうってかわって何もかもが生き生きとしていた。「もっとしてください!」「アァンハン…」「あーやばい!」その口からは透き通るような高音を纏ったセリフたちが次々と繰り出される。これには共演のダー様は「おっp…おっぱげた!」、しまぶーは「あぁ〜よう沁みる!」と大絶賛。監督もノーNG、まさしく文句無しの名演技だった。さっきまで見くびっていた短は自分に向けられるはずの賞賛をことごとく奪っていった。
「ケツデカさん、(気さくな挨拶)をお願いします」
収録スタッフのこの掛け声にケツデカは異議を唱えた。
「ちょっとすいませんこういう下品なセリフはやめてもらえますか?」
これにはスタッフのみならず共演の3人も戸惑っている。
「一箇所だけなんで、すみませんお願いします」懇願するスタッフの空しく乙女ケツデカは
「やめて…キツい…」の一点張り
収録は一時中断、監督や制作陣の協議の結果、挨拶のセリフは合成で対応することになった。それでもケツデカは不服だった。そんな彼女とは裏腹にベテラン二人は散々卑猥なセリフを発しまくっている。ケツデカはこの二人を内心軽蔑した。この人たちどうかしてるわ。こんな汚い言葉を遣うなんて…乙女の恥じらいはどこにいっちゃったのかしら?
アニメの放送は翌年の1月に始まった。ケツデカファンはもちろんのこと、天才声優現るとの下馬評を聞きつけた一般人も押し寄せ人気はうなぎ登り。放送三話目にして近年稀に見る視聴率を叩き出した。しかしやがて視聴者の関心はケツデカから短に移っていった。ターニングポイントとなったのはバーテンダー横井編での短の活躍だ。短の高音が遺憾無く発揮され、視聴者はその酔いしれた。シリーズ後半はもはや短の独壇場だった。短人気は加速度的に過熱、一方のケツデカブームは反比例的に沈静化していった。
ケツデカは動画サイトで自分の出演作を見ていた。コメントを見る。
短ちゃんかわいい〜 短たその出番もっと頂戴…! ケツデカの演技哺乳瓶レベル
こんなのを見せられてはいてもたってもいられない。ケツデカの乙女のジェラシーはメーター振り切り、スマホとパソコンの二刀流でSNS掲示板動画サイトのコメント欄を次から次へと転戦するケツデカの日々が始まった。目的はもちろん短のネガキャンと短豚の駆逐制裁、加えて自分を売り込むこと。
醤油瓶野郎の短マジきしょい…
ファンには本性隠してるけど、短ってやつ、本当はちょっとどころじゃなく横暴らしい
大体体重が105キロって何よwwwwケツデカよりも20キロも重いとかマジ有り得ないんですけどwwww
短が好きとか言ってる奴らはヤリマン兄貴とか虎寅にアンチコメする陰湿野郎共
短豚きっしょ
ケツデカの声あれはマジで最高だよな、誰でもピングーの声って認識するレベルだしすごいわ
ケツデカは俺を妊娠している
デーカちゃんかわいい
さっき流行りのケツピン見てきたわ。主演のケツデカが最高だった。
ピングー見た!!\(ˊᗜˋ*)/ピングーの声優のケツデカさん声も綺麗だけど顔もめっちゃ可愛い( ´,,•ω•,,`)♡
常識的に考えて短なんかオマケだろ。ケツデカを差し置いて持ち上げられてるの意味わからん
手当り次第に書きまくったケツデカだったが、某掲示板では数日後に早くもこれらの書き込みが同一人物であると特定、そこに書かれた「こういうとこに張り付いてるとかよっぽど暇人なんだな。どうせ身の程をわきまえずに短に嫉妬してる底辺声優志望とかなんだろw」というレスに年甲斐もなく憤慨、PCをキーボードクラッシャーよろしく机にバンバンぶつけてクラッシュさせ、スマホは床面に散々叩きつけてやったおかげで液晶だけじゃなくて本体もバッキバキに割れ原型を留めていなかった。さっき乙女とか言ったけど中身は中年ハゲ小太り氏だからね、しょうがないね。
事件が起きたのはケツデカと短の生放送の日だった。スタジオのスポットライトに慣れていない短はたどたどしい。それでも流れてくるのは「短ちゃんかわいい」「短たそ〜もっとこっち向いて」と短のコメントばかり。見たくもない短信者を見せつけられケツデカはクッソ不機嫌になってあからさもに不穏な雰囲気を漂わせていた。コマーシャルに入るやいなやケツデカは短に向かい「この野郎醤油便」と一喝、その後も厳しい言葉でまくし立て短を非難した。「禿げろ!」「(存在が)ギルティ!」「駄目!駄目!」あまりの迫力に凍りつくスタジオとスタッフ。罵詈雑言を浴びせられた短はついに「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙…(呪怨)」と泣き出してしまった。そのとき世にも不思議なことが起きた。毒を吐きまくる美少女ケツデカはみるみるうちに黒ずんでいき、やがて姿を現したのは頭は見事に禿げ上がり、チャームポイントは眼鏡に困り顔の八の字眉、ぷっくり膨れた腹と唇が超キュート(大嘘)な中年親父。
cm開けの視聴者たちの目に映ったのは既にハゲ散らかしてるくせにキレ散らかすオッサンケツデカと震えながら泣く短。「短ちゃん泣かないで」「短ちゃんかわいそう」「短いじめるなよケツデカ」「ケツデカが男になっちゃっ…たぁ!」「なんだこのオッサン!?」「痛きしょい…」「ケツデカ本性現したね。」「今までは性格だけが最悪だったけどこれからは心身ともにキツくてキモイな」「バラしたいなって…」とコメント欄は大荒れ。
これ以上の放送継続不可能と判断した運営は急遽打ち切りでcm入り。結果としてグノシーのcmが延々と流れることになった。これこそが名高いグノシー事件であり、今なおケツデカの動画にグノシー…というコメントが溢れかえる所以である。
以降ケツデカはアニメ業界一切出入り禁止、行きつけのバー横井からも入店拒否。通ってた文吾専門学校も退学処分。あとエチオピアからも入国禁止令食らいました。
荒んだ魂は肉体をも蝕んだ。残る隈無く。完全に。
こうしてかつての美少女声優ケツデカは40代の小柄太目課長として生きていくことになった。