ぷもも園

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【syamu学】syamu氏オリジナルボカロ曲を分析する(ボクはマイホーム篇)

syamu氏はその動画制作が広く知られている。氏特有のユーモラスでミステリアスな言動が遺憾無く発揮された作品は他のユーチューバーの追随を許さない独創的な世界を作り出し色々な意味で人気が高い。一方でボカロの作詞作曲あるいは小説の執筆といった業績に関してはこれまであまり研究が進んで来なかった。恐らくはこれらの作品群が動画にも増して不可解であるからだと思われる。この未開拓の分野に新たな鉱脈を探るのが本稿の目的とする所である。さて今回はsyamu氏のボカロ曲「ボクはマイホーム」の歌詞について分析してみようと思う。

 

詳細な歌詞は以下のリンクを参照願いたい

www5.atwiki.jp

 

この曲の歌詞に見られる特異点は家を「ボク」として擬人化しているところだろう。また、全体の歌詞を要約するならば「ボク」自身が家族の一員として扱われることのない家という存在であることへの苦しみと家族に愛されたいという切実な願いが綴られている、とでも言えるだろうか。

 

鋭い読者はお気づきのことと思うが、この家である「ボク」はsyamu氏の思いを代弁する存在である。この歌詞には焼肉から「業人」、妹から「引きこもり」と心ない言葉で罵倒されぞんざいに扱われてきた彼の姿が見え隠れしている。とりわけ以下の歌詞には痛切な思いが込められていると言ってよいだろう。

 

いつでもボクを忘れないで愛し
それは夢だけど大きく小さな幸せ

 

「ボク」を忘れないで愛しということが「夢」であるというこの一節は、もはや家族から忘れ去られ一縷の愛をも注がれなくなった哀しき30代無職の現実を端的に示している。

 

syamu氏にとってマイホームとは家族から見捨てられ忘れ去られてゆく物の象徴であったのかもしれない。幼少期に広島の自宅から貝塚の宿舎へと引っ越した経験が鮮烈な印象とともに脳裏に刻み込まれているのではないか。そして家族が置き去りにしていった記憶の中の家に家族からの疎外感を抱く現在の自己の姿を投影したのではないか。

 

さらに以下の最終節も注目に値するであろう。

 

いつかはボクに届く合言葉があるように
全てに意味があるからぼくはひとりではない

 

前半部分には「ボク」の望みが述べられている。この箇所にとどまらずこの歌詞で「ボク」が希望を述べる部分に共通しているのは望むだけ望んで置いて自らは何も行動を起こす意思を見せていないという点であり、これはまさしくsyamu氏の現実の姿と一致する。要するにただただ他力本願なのだ。

 

そして後半部分では「ぼく」という平仮名表記が初登場する。この「ぼく」はsyamu氏自身のことであろう。ここまでは「ボク」という形で家の視点を仮借していた氏が突然その姿を現す。これだけでも十分謎だがさらに不可解なところがある。全てに意味がある→ぼくは一人ではないという理屈は一体どういうことか?(ある意味この手の謎理論は彼の真骨頂と言えなくもあるまい)これは推測に過ぎないが氏には意味とは何らかの関わりを持つ他者によって付与されるものであるという観念があるのだろう。この理論では確かに全てのものに意味すなわち他者との繋がりががあるならばその全てに含まれる自分もまたそういった繋がりを持っているのである、と言える。しかし幾ら何でもこれは強引すぎる自己肯定だ。

 

もっともこの無理矢理感の否めない自己肯定は冒頭の

 

どうしてボクは生まれたんだろう

 

というある種自己否定的な詞と対応しているのだろう。これは仕掛けられた高度な技巧なのかもしれない。この歌詞の中には他にも第二段の4行における冒頭の言葉の繰り返しなどの工夫が見られる。(しかし絶望的な曲のテンポの悪さから歌として聞くとこの繰り返しが仇となっている感が否めないのは残念至極である)

 

ここまでの分析を通して浮かび上がってきたのはこれまで見過ごされがちだったsyamu氏の姿である。彼は何も考えておらずに全く危機感を抱いていない人間と見られがちであったが実際には現在の自らに対してかなり考えを巡らせているのではないか。しかし他力本願的な性質のためその抱いた危機感を行動に移すことが無い。そのため家族を含めた周りには何も考えていないろくでなしとの印象を与えてしまう。そうした自らに対する誤解への苦しみの中この曲が作られたのでは無いか、と私は思っている。